前回、「自由な報道 上」では
『各社が特色を出すカギは現場にいる記者の感性と、それを信用して的確な指示が出せる上司。
しかし、特に大手の場合、組織が大きすぎて優等生的な人間が重用される』と書きました。
極端に書いたのですこしわかりにくかったかもしれません。
もう少しひいた言いかたをすると、
現場の記者よりも、組織の理論・力が強すぎるということです。
そして問題なのは、前回書いたように、各社がライバル他社の動向を気にしすぎるため
報道各社が組織としての色、とくに責任を失いつつあること。
組織としての特色・責任がなければどんなに意欲的な人間が現場にいても
その報道はあたり障りないものになってしまう。
だれも責任をとるものがいなければますます他社との横並びになり、
そこそこのところで落ち着いてしまう。
さらにそれが進むと、現場の記者に必要な感性を教える人間もいなくなってしまう。
報道というのは様々な問題を社会に発信する・提起するのが役目です。
「報道の自由」ということで普通の人が入れないところに入れるなど
報道機関にだけ許されていることもたくさんあります。
「報道の自由」によってさまざまな取材を認められていながら、
他社の報道を気にするあまり、「自由な報道」を自ら放棄している。
私は、時間がある限り新聞は複数見るようにしています。
最近はお金がないのであまり買いませんが、
前は暇があれば、コンビニで自宅の購読紙と別の新聞も買っていました。
報道各社には他社との横並びの意識を捨てて、
責任ある独自の論調を打ち立てることを期待しています。
そして、報道を観る・読む側の皆さんには
優等生的な論調をなんとなくけ入れるのではなく
自分の考えにぴったり合う報道機関を選んでほしいと思います。