「自由な報道 序」を書いてから日がたってしまいました。
『報道機関が10社あったら10通りの論調があるべきだ』という私の考えを引き続き話します。
発売中の文藝春秋9月特別号の491ページ「新聞エンマ帖」に次のような記載を見つけたので引用します。
『購読層を絞り込むことができず、幅広い不特定多数の国民を読者に想定している新聞が
優等生的なタテマエ論を展開するのはいつものことだ。・・・(以下略)』
新聞エンマ帖の筆者がどなたなのか、記載が見当たらないのでわかりません。
しかし、表現やとらえ方は私と違いますが、「多くの新聞が同じような論調をしている」
ということを端的に指摘しています。
私は取材を経験した者の見方として、なぜ国内の多くの報道機関が
同じ出来事を同じような論調で扱うかについて話します。
「取材に正解はない」。これは私が8年という短い記者経験でしたが、
その中で痛切に感じた持論です。
数えきれない交通事故や裁判をみても、原因や状況などをみると、
同じ事故・裁判というのはありません。
選挙だって過去の選挙と全く事情が同じという選挙はありません。
原理原則を言うと、取材は一回一回が勝負で、
その報道の仕方は、テレビや通信社には速報性が求められ、
新聞はネットで速報しつつ、翌朝刊には掘り下げた記事が求められます。
しかし、私が残念だと思うしやりきれない気持ちになるのは、
報道機関の中で、取材の正解を求める傾向が強すぎることです。
たとえば、私が、ある日の午後あった事件をその日の夜のニュースに向けて原稿を書きます。
そうするとその原稿を書いているうちに通信社が速報を配信します。
私自身は、自分の原稿に追われて通信社の記事をみる暇はないのですが、
大きな事件になればなるほど上司や幹部の眼には、通信社の原稿が先に目にとまります。
そうすると、上司との信頼関係によるのですが、私があまり信用されていない場合、または記事がすごく難しいときには、
知らず知らずのうちに通信社の記事にとらわれるようになります。
これは新聞社も同じです。新聞記者が明日の朝刊にむけて必死にパソコンをたたいているときに、
NHKのニュースが18時か19時に流れます。そうすると新聞社の上司には
NHKのニュースが刷り込まれると同時に、記者に「原稿を早く出せ」という話になります。
記事というものは多くの人に読まれるので、独りよがりになっては理解が得られません。
だから、報道では原稿を書く記者とそれをチェックするデスクが必ず存在します。
しかし、ライバル他社の報道にひっぱられるようでは、
そもそも、その報道機関の存在意義はないというのが私の考えです。
各社とも大きな事件や政治の動きは必ず取材をするので、
現場の記者が見ているものは各社同じです。
ですから事実関係は一つなのですが、
そのとらえ方、掘り下げ方には各社特色を出してほしい。
各社が特色を出すカギは、現場にいる記者の感性と
それを信用して的確な指示が出せる上司です。
報道機関という仕事は、与えられたことをやっていればいいという感覚では
絶対にできない仕事です。
しかし、さまざまな事情から事なかれ主義の会社員に陥っている人も多いです。
それは、個人的な事情もありますが、
特に大手の場合、組織が大きすぎて優等生的な人間が重用される。
そして、純粋な気持ちで入社した記者は、報道の世界に打ちのめされ、悩みながら
だんだん報道業界にそまって行きます。
このテーマ、話が長くなりそうなので、「自由な報道 中」に続きます。
次回は現場記者の悩みと、
報道機関が高らかにうたう公共性についてお話しさせていただきます。