行動なくして
実現なし
001.想い

自由、民主主義、基本的人権は「しっかり定着」するものなのか

先の国会の2月3日、衆議院予算委員会で、生活の党の畑議員と安倍総理の質疑応答に以下のようなものがあった。ニュースにもなったから覚えている人もいると思う。

畑議員
「(前略)憲法との関係でちょっとお伺いしたいんですが、総理、憲法というのはどういう性格のものだとお考えでしょうか」
安倍総理
「憲法について、考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方はありますが、しかし、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、今まさに憲法というのは、日本という国の形、そして理想と未来を語るものではないか、このように思います」

また、2月20日の衆議院予算委員会では、安倍総理は次のように発言している。

「今まで、私は一度も立憲主義を否定したことはもちろんないわけでありまして、立憲主義のもとにおいて、行政府が主権者たる国民に対して責任を持って政治、行政を行っていくわけであります。
 立憲主義とは、主権者たる国民が、その意思に基づき、憲法において国家権力の行使のあり方について定め、これにより国民の基本的人権を保障するという近代憲法の基本となる考え方であり、日本国憲法も同様の考え方に立って制定されたものと考えているわけでありまして、この立憲主義に基づいて、先ほど申し上げましたように、行政を行っていくことは当然のことであります。
 そして、憲法についての議論の中で出てきたことでありますが、その中において、憲法というのは行政の権力を縛るものだということであります。
 もちろん、その一面を私は否定したことは一度もないわけでありますが、それだけではなくて、つまり、かつて王政時代に王権を縛るというもともとの淵源はあるわけでありますが、自由と民主主義、そして基本的人権が定着してきた今日においては、それのみならず、いわば、国のあり方、理想についても、それは憲法に、新しい憲法をつくっていく上においては込めていくものであろう。
 事実、日本国憲法においても前文があるわけでありまして、例えば、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼をして、我が国の生存と安全を保持しようと決意したということが書いてあるわけでございますが、別にこれは権力を縛るためのものではないわけでありますし、また、我らは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う、こう書いてあるわけであります。
 これはまさに国のあり方を、これについては議論があるところでありますよ、しかし、これは、いわば国がどうあるべきかということをここに書き込んでいるわけでありまして、ずらずらずっと、ひたすら国家あるいは政府の権限の行使について縛りをかけているものだけではないということは申し上げておきたいと思います。
 まさに今、戦後七十年たって、自由、民主主義、そして基本的な人権、これがしっかりと定着した中において、二十一世紀、日本はどうあるべきかという考え方のもとにおいて、憲法を変えていくという考え方もあってもいいのではないか。それはしかし、立憲主義をもちろん否定するものではない中において、それも加味されるものではないかということを申し上げてきたわけでございます」(引用終わり)

 

安倍総理は、「憲法は行政の権力を縛るものだ」という考え方を否定せずに、国のあり方、理想についても憲法に書き込むべきだと考えているようだ。

私も、憲法に日本のありかたを書くことは否定しないし、安倍総理がいうように現行憲法にもそうしたことは書いてあると思うが、安倍総理が、今という時代を「戦後七十年たって、自由、民主主義、そして基本的な人権、これがしっかりと定着した」というのは違うと思う。

私は、王政時代だろうと今だろうと、権力は腐敗・暴走する可能性が常にあり、そうしたことを防ぐために立憲主義というものを先人たちが生み出してきたと思う。

自由、民主主義、基本的人権は、一見定着したように見える時期もあるがそれは崩れやすいもので、国民の不断の努力の上に守り続けられているものだと思う。

民主主義には「しっかり定着した」とか「完成」といったゴールはなくて、国民が守らなければ簡単に崩れてしまう。国民が民主主義を守っていくために、権力を縛る憲法はいつの時代も最重要だと思う。