もう1ヶ月近く前のことになるが、被災地に行ってきた。被災地にいくのは約2年ぶり。震災のあった年の5月にいった以来だ。前回は絶望に近い感覚に陥ったが、今回はどうなのだろうか。復興が進んでいるのではないかという期待と、報道をみるかぎり、期待できないという思いが混じりながら気仙沼に向かった。
気仙沼には、仮設商店街ができていた。被災して店を失い、商店街の復興が進まない中で、プレハブ棟にいくつもの店が集って商売を再開したという。
学校に隣接している仮設住宅にもいった。月曜日の午前中なので、高齢者や主婦が数人いるだけだった。お年寄りの女性が「私たちは、みなさんにどれだけ感謝してもし足りない」と話していた。2年前に泊まらせてもらった避難所でも、同じ言葉を何度もきいた。2年前も今回も、非常にありがたい言葉をかけていただいたと思ったが、復興が依然として道半ばであることも感じずにはいられなかった。
気仙沼港の回りは工事がさかんにおこなわれていた。しかし、建物はなくなったままで、更地が目の前に広がっている。市の職員によると、震災で自然体が平均で74センチ地盤沈下したという。被害を繰り返さないように、盛り土をした上で再建をすすめるようだが、かなり時間がかかるだろう。
2年前、がれきで埋め尽くされた街の中にあった、流された漁船はそのまま残っていた。がれきは片付いたが、なにもない更地のなかに船だけが残っていた。津波被害の象徴として保存するか、それとも撤去するのかで議論が続いているという記事が、ちょうどその日の地元紙に出ていた。
津波に襲われた市内の高校は、大破したまま残されていた。増築したばかりの高校が津波で大破し、生徒はいま、別の場所に通っているという。グラウンドには大きな焼却施設、クリーンセンターが建っていた。
気仙沼から隣の南三陸町にいったら、嬉しい再会がまっていた。南三陸町の佐藤町長(写真右)だ。奮闘ぶりはTVでみていた。「なんで2年前はこなかったの.寂しいっちゃ」と笑顔で言われ、笑顔を返したが、2年前は、街がなくなってしまった映像を何度もみせられていて、馴染みの深い街だっただけに、恐くて入れなかった。
町役場は新しい場所に。
南三陸にも仮設商店街が、沿岸から離れたとことろにできている。そばには、鉄道代わりを果たしているバス停もできていた。
震災前の街の中心部は沿岸にあった。何度も映像や写真でみてきた役場の防災庁舎。かつて何度も訪れた建物だが、骨組みだけになった姿はあまりに小さかった。あたり一面の更地が被害の大きさを物語っている。かつての街は、ない。
防災庁舎で手を合わせていると、ほかにも何人か、花をもって祈りに来た人がいた。おそらく毎日、多くの人が訪れているのだろう。
復興の道のりはまだまだ長い。2年ぶりにいって、改めて感じる。被災地に、これからも思いをはせていかないといけない。復興はいまもこれからも、日本の最優先課題だ。
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