(3月12日信濃毎日新聞より)
2011年3月11日午後2時46分。
その後時間が止まったかのように他のことが手につかない。
ずっとテレビを観ている。観測史上最大だという。
私が体験した平成20年6月14日の岩手宮城内陸地震を
はるかに超える被害映像が延々と流れている。
今は被害の大きい宮城、岩手、福島の沿岸部や
仙台市中心部の映像が集まっているが、
震度7を記録した宮城県栗原市など
山間部の被害も相当なものだろう。
知り合いの家がある街、取材で何度も通った街、
プライベートで訪れた街が水没してなくなった。
無事が確認できた人がまだ1人しかいない。
長野県の夜中の地震も栄村など、避難をしている人が多いようだ。
人的被害の報道がないのが救いだ。
水、食糧、防寒具、トイレ、暖房など、足りないものだらけだろう。
平成20年の地震で私が、もっとも被害が大きかった山間部にはいった時も
水、電気、ガスは止まっていた。自衛隊、消防、警察の捜索隊とともに
崩れかけた宿泊施設で夜露をしのいだ。トイレはなかった。
大きな余震がきたときは「これでおしまいか」と思った。
自分たちでもっていった食糧で一番重宝したのは飴だった。
飴なら水もトイレも気にならなかった。
「できることはなにか」と考えながら
当面の予定をキャンセルして情報を集めている。